セクシュアリティの消費――なぜ腐女子は「ホモ」と言うのか。

セクシュアリティの消費』

 

 

 特に「腐女子」の人に、けれどもそうでないオタクの人にも、オタクでない人にも、読んでもらいたいと思って書きました。必ずしもセクシュアリティのお話だと思って読んでもらわなくてもかまわないとも思っています。一つの具体的なテーマについて考えたやり方は、他のさまざまなことを考えるときに応用できると思います。自分の中のさまざまな偏見や固定観念を、自分で発見しようとするときに役に立つと思います。

 本文は、元は僕の卒論だった文章に、やや脚注を付け足したものです。注釈は殆ど自分用のメモみたいなものですが、気付き次第増やしていくかもしれません。増えないかもしれません。

 

 

謝辞

 ツイッターアンケートにご協力くださった皆さま、リプライをくださった方々、DMで緻密な議論を交わしてくださった方々に厚くお礼申し上げます。

 この論文を読みたいと言ってくださり、読後非常に丁寧なご感想をくださったLto(ると)さん、ありがとうございました。

 当時、アンケートをもとにご自身の考察を綴られた、村田悠 様のブログ記事です。

「ホモ」という言葉の攻撃性について : ”好きな人を好きといいたい!”村田悠のblog

 その節は誠にありがとうございました。

 

 

 

1-1 タイトルについて

 はじめに、「セクシュアリティの消費」というタイトルの示す意味について明らかにしておきたい。これは、“他者のセクシュアリティを(わたしが)消費する”という意味である。

 そもそもセクシュアリティというものは、個人の持てる自由の範疇にあって、それが他者の権利を侵害しない限りにおいては、外部からの制限や干渉を受けずにいられる筈のものである。しかしながら、わたしたちはなぜか往々にして、他者のセクシュアリティを放っておこうとはしない。殊に、現在の日本社会においてマジョリティの位置にいる「異性愛者」は、「同性愛者」のセクシュアリティに非常に一方的なまなざしを向けているように思われる。それは“監視”をするような、とでもいうべき視線である。また、一見“肯定的”に見えるまなざしであったとしても、それはその実、“観賞”して“消費”するようなものであることがけして少なくないのである。

 そう、これらはあからさまに“否定的”なものであるにせよ “肯定的”なものであるにせよ、「同性愛者」を完璧な“他者”として自分から隔絶しようとするまなざしであるという点においては違いを持たないといえる。歴史的に構築されてきて、今や社会のあらゆる場所に浸透した異性愛規範やホモフォビアによって、ある意味“わたしたち”はそう強いられているともいえる。しかしそれは、それらの規範にわたしたちが無意識に従っている結果にすぎない。そう、多くの“わたしたち”は異性愛規範やホモフォビアが当たり前になりすぎた社会の中で、当たり前が当たり前と“されている”ことに気付いていないのだ。本論が、タイトルの主語に「セクシュアリティ」を置き、「消費されるセクシュアリティ」とでもしないのはこういう意図である。つまり、他でもない“わたしたちが”、セクシュアリティを今まさに消費しているのだということを示唆するためである。セクシュアリティなるものを問題とするのではなく、セクシュアリティを消費しているというわたしたちのあり方と、その仕方とに焦点を当てる。

 

 

1-2 論旨と用語整理

 さて、本論では、上で述べた「セクシュアリティを消費するというわたしたちのあり方と、その仕方」のある具体的な一例について考察する。その例とは、「『腐女子』が萌え語りの中で『ホモ』という単語を日常的に使うこと」である。つまりは、「なぜ腐女子は自らの『萌え』の対象である男性キャラクターたちを蔑称で呼ぶのか?」という問いを考えようというのである。

 「腐女子」とはオタクの類型の一であり、BL作品を好んで観賞したり作ったりする人々を指す言葉である。この呼称は元々、他者としてのBL愛好オタクを蔑視する用途で2000年頃から使われていたが、いつの間にか当人たちが自ら名乗るようになり(溝口p.48-49)、今では他称としても自称としても定着している。名称から察せられるとおり、その多くは女性――異性愛女性である。「BL」には細かい定義がさまざまにあるのだが、ごく端的にいえば“男性同士の恋愛や性愛を中心に描いた作品群”のことである(“BL”は直接には「ボーイズ・ラブ」の略)。今回研究の対象とするのは、現在、現役で、消費や創作活動に勤しむ腐女子たちである。ゆえに、今回本論にて言及する「BL」は、定義をもう少し詳しくしておくとすれば、森茉莉の『恋人たちの森』を嚆矢とする広義のBLというよりも、溝口彰子氏のいうところの「BL〈第三期〉」――つまり2000年~現在のボーイズ・ラブ作品になろう。

 「腐女子」という言葉だが、近年では、東園子氏が指摘しているように、BLジャンルに限らない女性オタク全般を指すものとして意味が敷衍されることがある(溝口p.49)。しかし実際、少なくとも7、8年来以上の腐女子の中には、それは誤用であると認識している当事者が圧倒的に多い*1。また、この「腐」という当て字から推測できるように、この呼称は侮蔑・自嘲のニュアンスを多分に含んだものである。本論ではこの点を、先述の問題を考える上でかなり重要なものであると捉えている。これら二点の理由から、ここでは、「BLを愛好するオタク」を指すものとして、溝口氏の用いる「BL愛好者」の呼称に倣わず、敢えて「腐女子」という呼び名を採用することにする。

 ところで、さまざまなところで論じられているように、商業出版界と同人誌界とは、非常に密接な分かちがたい関係にある。永山薫氏の論を援用すれば、両者はどちらが「上」でも「下」でもなく、相互にミームを交換し合いながら、“ともに”表現の土壌を豊かにしてきたのである。その図式に当て嵌まるのは、BLジャンルも例外ではない。寧ろ、BL界における商業-同人の結び付きは、他のジャンルよりもいっそう密なものであるとも溝口氏は指摘する。

 同人誌には、商業作家がかき下ろすもの、アマチュア作家のオリジナル作品なども勿論あるが、その中でも大きな割合を占めているのは、「アニパロ」と呼ばれる版権作品の二次創作ものである。このことに関して、2016年11月にツイッターのアンケート機能を用いて、BL愛好者を対象に簡易なアンケートを行った。以下はその設問と回答の最終結果である。なお、回答期間は7日間とした。

 

【質問】

(原作がBLメインの話ではない版権作品の)二次創作と、商業BL。普段どちらを読むか。

【回答】

二次創作を読む/商業BLを読む……50%

二次を読む/商業は読まない……42%

二次は読まない/商業を読む……5%

どちらも読まない……3%

(回答数:1,907票)

https://twitter.com/oosenaoo/status/795918672464318464

 

 見て分かるとおり、二次創作を読む腐女子は全体の9割以上に上る。このような腐女子当人たちの間で「同人誌」といえば、大抵はアニパロ同人誌を指している。ゆえに実際、彼女らが二次創作を特に「アニパロ」と呼ぶことは殆どないくらいである。

 勿論、これは二次創作BLクラスタとしての一アカウントから発信したもので、ツイートの拡散も任意であるから、これに基づいて「腐女子」全体の傾向を一概に語れるものではないだろう。しかしながら、少なくともネット上で活動する腐女子の中に、ある一定の層が存在するということは明らかに見える筈だ。すなわち、SNSで仲間と交流しながら、商業BLを日頃読むと読まないとにかかわらず、BLジャンル以外の版権物をBL読みしている(また多くの場合は、それを表現することをも好んでいると考えられる)、という腐女子の存在が端的に示されている。そして、一定の層が存在するということは、それだけの、多くの当事者が、その界隈での流行や風潮、文脈や認識の枠組みなどにまつわるリアリティを共有しているということでもある。本論は、他ならぬそのような腐女子層に属する筆者自身の立場から、この層の腐女子たちが少なからず共有しているであろうリアリティや実感にできるだけ寄り添うかたちで、先の問いを考察していく。これはある明確な意図に基づいて建てられた指標である。それというのは、当事者外の観点から、対象を“異物”――完全な“他者”――として考察した研究は、当事者の実感とはまったくかけ離れたものになってしまうことが少なくなく、そのような言説には誰にとっても意義が薄い、というものである。実感からあまりにも離れた言論は、当事者からすれば憶測や、それこそ偏見じみた固定観念の再提出に見えるものであり、そのようなものへまともに耳を傾けようとは到底思えないものである。実際に、腐女子界隈ではこのようなことが――研究における当事者主義を重要だと思わせられるようなことが、度々起こっている。たとえば、「異性愛女性が男性同士の性愛を見て喜ぶのは、『受け』(BL用語。セックスの際に挿入される側)のキャラクターに自己投影しているからだ」と決めつける主張がよくなされる。これは、当の腐女子たちからは冷めた目で見られることが多い。たしかに、BLの楽しみ方にはそういう側面もある。だが、彼女たちがBLに萌えるのはけしてそれだけが理由なのではないし、また時代によってもBLが担う役割、腐女子たちがBLに託す想いは変遷しているのである。この点、当事者の立場から、歴史を追って論じられた『BL進化論』は時流に即し、現在の腐女子の姿を、感性を、つまりいわばリアルを捉えている。逆に、ボーイズ・ラブ初期の女性たちのあり方からいつまでも更新されない当事者外の研究は、当然現在の腐女子のリアリティとの齟齬を生ずることになる。こういうわけで、形而上的な概念としての腐女子の心理などではない、大衆文化としての腐女子文化を、実感に基づいてじっくり見据えるのが重要だと考えられるのである。

 ただし、(いうまでもないことではあるが、それでも)筆者が意識的に目指したのは、本論が腐女子の“実感”のみを取り纏めた報告には陥らないようにすることである。前項でも述べたように、本論の最大の目的は「気付き」に目を向けることである。腐女子の考えたいように、思い込みたいようにその視界を捉えているだけでは、ニュートラルな「気付き」は到底生まれえない。当事者の実感からかけ離れないような実態の観察と、その外側の研究領域の知を参照しながらの考察、その先に見えてくる気付きを、本論は目指す。

 

 

2-1 問いと仮説

 さて、本論で扱う「腐女子」層の中身について整理し、研究意図と則る方針とを確かめた今、本研究の論ずべき問いそのものを改めて詳しく確認する必要がある。

 問いはこうであった――「なぜ腐女子は自らの『萌え』の対象である男性キャラクターたちを蔑称で呼ぶのか?」。

 前述のように、多くの腐女子が「萌え語り」の中において「ホモ」という言葉を頻繁に使用している。ツイッターでの同クラスタとの会話、あるいはpixivに投稿した自身の創作物のキャプションなどで、「こういうシチュエーションのホモが欲しい」「公式がホモ」といった具合に使われる。使われるときは本当に、ごく自然に飛び出してくる言葉なのである。

 現実社会においては、「ホモ」は同性愛者の男性を侮蔑する文脈で使われてきた言葉であるため、昨今では不用意に使わないことが望ましいといわれている。「差別されるべき人々」という含みを語義の内に常に既に与えられてきた言葉そのものを棄てることで、同性愛者という存在に対する見方そのものを刷新するという、言葉を使う側からの政治的な表明になると考えられるのである。その上で、現在、同性愛男性を言い表すものとして最も適切であろうとされているのは「ゲイ」という名称である。

 腐女子はBLに「萌える」オタクである。「萌え」とは、主観的に好意的な感覚の筈である。それなのになぜ、敢えて彼らに「ホモ」という蔑称を宛がうのだろうか。

 これを考えるにあたり、先ず次のような三つの仮説を立てた。

 

(1)ホモフォビアの素直な表出

 ……腐女子はBLを、つまり男性同士の恋愛や性愛表現を好むのだから、ゲイフレンドリーな筈なのではないか、と思われがちである。腐女子自身の語りの中にもそういった自認がしばしば見て取れる。しかし、実際は必ずしもそうであるとはいえない。寧ろ、腐女子自身のそういった思い込みが、自分たちの心底にあるホモフォビックな感覚を覆い隠してしまっている可能性が十分に考えられる。つまり、腐女子自身が無自覚に抱いているホモフォビアというものを想定することができるのである。1-1で述べたように、少なくとも、“観賞”するまなざしは、主体が客体を観賞するという面においては一方的なものである。その権力関係を意図せずに構築できてしまい、さらにそのことを事後に反省することもないとすれば、相手を対等な他者として捉えておらず、それについて自覚を持っていないと考えることができる。*2

 

(2)そもそも「ホモ」が差別用語であるということを知らない

 ……最も単純にして案外該当者の多そうな理由である。実際、大学におけるセクシュアリティの授業の場でさえも、「ホモ」や「レズ」といった言葉を差別用語だと知らずに使用する学生が珍しくない。場が腐女子コミュニティに移れば、全体に占めるそのような人の割合もぐっと増えるに違いない。

 

(3)自虐の捻じれた表出

 ……「腐女子」は、その侮蔑的なニュアンスを自称として取り入れたことからも分かるように、自分たちの文化を、もっといえば感性を、アングラなものであると強く認識している。ゆえに、自分たちの嗜好の対象までをもひっくるめて自ら貶めることで、過剰な謙遜を演出しているのではないか、というのがこの三点目の仮説である。しかしそれでは、あくまでも自分とは別の存在である筈の男性キャラクターたちを貶める理由としてはいまいち成立しえないようにも思われる。男性キャラクターたちや彼らどうしの関係性を「尊い」と評しながら、同時にそれを常に貶めているというのは、やはり非常に矛盾した言動であるように見える。こういう意味で「“捻じれた”表出」という表現を採った。

 

 これらの仮説を差し当たっての足掛かりとしながら、次の2-1~2-5で問いを検証していく。

 

 

2-2 実際

 さて、実際具体的な腐女子の声を聞くために、再び彼女らを対象にアンケートを行った。これは、1-2でのアンケートを発信したのと同じアカウントからツイートしたものである。リプライ機能でツイートを繋げた全三問構成で、回答期間はどの質問も七日間に設定した。以下がその質問と最終結果である。

 

【質問1】

 あなたはBL絡みの萌え語りや会話の中で、「ホモ」という言葉を使いますか?

 また、リアルでは「ホモ」が差別用語である、ということを知っていますか?

【回答】

 使う/知っている……44%

 使う/知らなかった……12%

 使わない/知っている……37%

 使わない/知らなかった……7%

(回答数:426票)

 https://twitter.com/oosenaoo/status/795964154758590464

 

【質問2】

 架空の作品(商業、あるいは二次創作BL)についての萌え語りの中で、「ホモ」という言葉を使うのはやめるべきだと思いますか?

【回答】

 やめるべき……19%

 やめる必要はない……43%

 分からない……36%

 その他(可能であれば詳細をリプライ希望)……2%

 ※「その他」の具体的な回答としてDMで寄せられたもの……「閉じられたコミュニティだけの会話のやり取りであれば問題が無いと思うため。」(「閉じられたコミュニティ」とは、例えば鍵のかかっているSNS、メッセージアプリ、スカイプ、密室での会話がそれに該当する、とのこと。)

(回答数:410票)

https://twitter.com/oosenaoo/status/795964569956929536

 

【質問3】

 質問2で「2」と回答された方のみお答えください。

 差別用語だと知りながらも、あえて「ホモ」という言葉を使う理由を教えてください。

【回答】

 自分は差別するつもりで使っているのではないから……47%

 BLはファンタジーなので現実の差別とは関係ないから……32%

 正直同性愛者のことを敬遠する気持ちがあるから……6%

 その他(可能であれば詳細をリプライ希望)……15%

 ※「その他」の具体的な回答としてリプライで寄せられたもの……「そう言った方が周りに伝わるから。」

(回答数:245票)

https://twitter.com/oosenaoo/status/795965114146881536

 

 各設問での最も多い回答を単純にまとめると、「差別用語であると知りながら使い、それをやめる必要はなく、なぜなら自分は差別するつもりで使っているのではないから」、という結果になった。

 質問3の回答数は、2で「やめる必要はない」と答えた人数よりも多くなっている。ある人は、質問2に関して、「自分の中に『やめたほうがいい』と思う部分と『二次元に対してのみの使用なら大丈夫』と思う部分とがあるので、『分からない』を選択した」とつぶやいていた。このような意見を持つ人が、「二次元への使用に限ってならやめなくてもいいと考える理由」を、質問3で回答したケースが多いのだろうと思われる。このことについては後ほど再び触れる。

 ところで、質問3の選択肢は、まったくの当てずっぽうで設定したものではない。大学でのジェンダーセクシュアリティの授業の場において、教員や学生の話の中に度々聞かれた「差別用語を使う側によくある言い分」を参考に選んだものである。

 今回は、あまり詳細なアンケートを作ると、1ポスト140字の気軽さに集まっているツイッタラーの反応は却って悪くなるだろうと考え、なるべく抑えた質問数にした。それでも前章のアンケートに比べると回答数ががくっと落ちている。あるいは質問文をもう少し軽い口語調にすればまた変わったのかもしれない。ツイッタラーの気を惹くのはやはりツイッター構文である。また、この種の話題そのものを避けたがる傾向があるとも考えられる。食指が動かないとでもいったほうが適当かもしれない。実際、このアンケートを見てDMを送ってきたある腐女子は、「アンケートをRTをしたけれどもTLにいる誰も反応を見せないし、自分が場違いなことをしているかのように感じた」と語っていた。筆者自身、この話題をTL上に流すことがそれまでにも何度もあったのだが、そのポストに被さるようにフォロワーの「ホモうめぇ」といったつぶやきが頓着なく投下されるというようなことは茶飯事であった。わざわざ反応するまでもない話題だと捉えている当事者も、かなりの割合でいるのであろうと推察される。そういった層の存在は、当然ながらアンケートの数字そのものには反映されていない。

 RT先のつぶやきを見ていると、2の「やめる必要はない」の理由として、選択肢以外の様々な考えを知ることができた。特に多かったのは、「そこに言及するのは言葉狩りではないか」という意見である。

 また、「他の言葉ではニュアンスが伝わらない」という感覚も多くの腐女子が共有しているようである。2への回答としても寄せられていたが、TL上のつぶやきやDMの中でも同種の意見がかなり見られた。これは一腐女子としての筆者自身も実感として共有するものである。“ニュアンス”とは、ここではつまり腐女子自身の“萌えの対象”を指していることになる。「わたしは“まさにこれ”に萌えているのだ」というニュアンスを、的確に縁取って仲間内で伝達し合うためのパッケージとして、「ホモ」を必要としている、というのである。すなわち腐女子が「ホモ」という言葉でいい表せると信じているニュアンスを読み解こうとすることは、腐女子の“萌え”の対象を判然とさせようとすることと等しい。“萌え”を感じる対象が判明すれば、腐女子が何を観賞しそれをどのように消費しているのかということもまた、見えてくる筈である。それは“気付き”に向かう手掛かりとなる。

 次の2-3~2-5では、アンケートへの反応からより詳細な輪郭をもって浮かび上がってきた問いを、一つずつ取り上げて考察していくことにする。

 

 

2-3 〈なぜ「『ホモ』でなくてはならない」のか?〉

 「二次元に対して『ホモ』というのを禁止しようとすることは、言葉狩りである」(実際「禁止せよ」とまで強い言葉は筆者も彼女らも使ってはいなかったものの、端的に一言で表せばこういうことである)――この主張から読み取れることは何であろうか。「言葉狩り」の定義やこれが言葉狩りになるか否かはここでは一旦保留した上で、そもそもそういう感覚を抱くのはなぜなのか、ということに目を向ければ、彼女らはその言葉を狩られては堪らないと思っているのだということがいえそうである。狩られては堪らないというのは、自分が使うのは「ぜひともこの言葉でなければならない」と思っているからこそ出てくる反感である。なぜ、“ぜひともこの言葉でなければならない”のか。それは、彼女らの表現したいニュアンスを的確に汲んだ言葉が、現時点でそれ以外には存在しないと思われているからに他ならない。現実社会では「ホモ」の適切な言い換えの言葉とされている「ゲイ」をもってしても、代替不可能だと思われているのである。

 その考えに至る道筋として想定されるものは二つある。つまり、「ホモ」を代替不能な唯一の概念だと感じる背景にある理由としては、次の二つを考えることができる。

 

・「ホモ」の表象する概念が、そもそも一般に使われる「ゲイ」という語には含まれていないものだから。

腐女子が「ゲイ」という語に抱いている主観的な印象が、「ホモ」という概念と反発しているから。

 

 言葉というものが、使用されるその場その場で意味を付与され、実際に使われることによってのみ存在しうる*3ということを考えれば、「言葉自体」といえるようなものが存在する*4とはいい難いところがあるが、少なくとも“一般的に使われている語義”を便宜上そう呼ぶとすれば、前者はすなわち「『ゲイ』という言葉そのものの語義に、腐女子の伝えたい意味が含まれていないため」といい換えることができる。一方後者は、「『ゲイ』という人間のあり方が現実にどうあれ、腐女子がそれについて抱いている印象によれば、『ゲイ』は『ホモ』とは異なると思われるため」という意味のものである。

 以上の二点の、どちらがどれだけどんな具合に腐女子の思考を形作るのに影響しているのか、ということは、

《1》腐女子の普段の萌え語りにおける「ホモ」の使用法

《2》腐女子のもつ「ゲイ」に対する認識

《3》現実社会における一般的な「ゲイ」の言葉の中身

 この三つを互いに照らし合わせていけば、自ずと見えてくるであろう。

 

《1》 先ず、腐女子が実際どのような“ニュアンス”を「ホモ」という言葉に託そうとしているのかを見てみることにする。腐女子コミュニティ内で目にする実例を思い返しつつ、アンケートに対する反応を探るうち、ある重要なことに行き当たった。それは、腐女子の「ホモ」は、どうやら非常に多くの場合において、「男性同性愛者」を指しているのではないということである。

 より具体的には、その用法は次の二つのパターンに分類できる。

・「BL」そのものの代替語として使われる。

(「ホモ同人誌」→BL同人誌、「幼馴染ホモ」→主人公二人が幼馴染であるBL)

・シチュエーションやシーンの雰囲気、キャラクターの言動などが「BLっぽい状態」である様を表す。また、キャラクターどうしの(ある程度継続的な)関係性の同性愛的な様子を示す。

 たとえば、「公式がホモ」という、この定型そのものがスラングとして定着したような使用法には、「BLではない版権作品の、原作や公式メディアミックス作品において、恋愛関係が明示されていない男性キャラクターどうしが、しかし恋愛や性愛とも読めるような関係性にある、または言動がそのように読めるものである」という意味合いがある。すなわち、これは「キャラクターの関係性」と「その場の様子や状態」のどちらをも指し示しうる用法だといえる。

 つまり、腐女子の萌え語りに登場する「ホモ」という単語は、BLそのものの代替語である場合を除けば、名詞ではなく、形容詞的用法であることが殆どなのである。

 

《2》 一方、腐女子が抱く、「ゲイ」という言葉に対する認識はどのようなものなのであろうか。アンケートへの反応で興味深いものがあった。「『ゲイ』はガチっぽい(だから萌え語りでその言葉を使うのは嫌だ)」というものである。「『ゲイ』という言葉は“リアルで重々しく”、それをフィクションに対して使うことは現実のゲイに対して失礼だ」という表現で、自らの感覚を語った人もいた。

 この場合、“ガチ”とはどういった意味であろうか。単純な語義としては、本物の、生粋の、といった具合だが、それをこの場合に当て嵌めるとするならば、おそらく「人格」というが近いであろう。俗にいうところの「そういった人種」である。そしてより知的に正しいいい方をするならば、それはある人が生まれてから死ぬまで一貫したものでは必ずしもないかもしれないが、少なくともある程度の期間、その人が継続的に持ち続けている「属性」である、といえるだろう。

 実例を挙げよう。「ガチホモ」といういい回しがある。多くの腐女子の間で「ホモ」は「同性愛者の男性そのもの」を指す言葉であるとは認識されていないので、性的指向が同性に向いていることが暗に、または明確に描写されたキャラクターに対しては、殊更に「“ガチ”ホモ」という表現がなされることが多いのだと考えられる。つまり、もはやBL「っぽい」には収まらない、「ガチ」の同性愛者である、という含みをこのスラングから見て取ることができる。

 

《3》 それでは、現実社会におけるゲイは、一般的にはどういう存在であるといえるのか。

 端的にいえば、ゲイは個人に付与されるラベリングである。“付与される”というと他者から押し付けられたレッテルのように聞こえてしまいそうだが、実際には、「ゲイ」という言葉は元々、「ホモ」という差別の歴史に塗れた消極的な名指しに対抗するかたちで、当事者が肯定的な意味でもって積極的に自称として使用し始めたものである。その表明を見た当事者外の人々が、自らの行った差別を反省し認めた上で、その差別的な歴史を断ち切るという宣言として、古い侮蔑語から新たな価値観を象徴する言葉へと切り替えたのである*5。こういうわけで、自称としても他称としても差し当たって肯定的に使われている、「ゲイ」という言葉の今がある。

 さて、日本において「同性愛者」の概念が誕生したのは大正時代のことである。西洋から輸入されて俗世間でブームを巻き起こした「性欲学」の影響で、「同性愛者なる人々」が存在するということが広く世間に知られるようになったのである。それ以前には、“同性間での性的行為”が存在しているのみで、そのような時代には、同性愛行為をするか否かは個人のアイデンティティにかかわるものではなかった(時代によって実態の細部は異なるが、大抵は、誰でもがしうる行為であり、それも一過性のものだとか、異性間の性愛の代替物であるなどと考えられていたのである)。「同性愛者」という概念が紹介されると、恋愛-結婚-幸福が強く結び付けられる過程でより強烈なものとなっていたヘテロセクシズムに対して、自分たちの権利を主張するため、自らその概念をアイデンティティとして受け容れる当事者たちが多く現れた。(一方で、性欲学の中で「変態性欲」と銘打たれたことにより、同性間での恋愛や性愛は「同性愛者」なる限られた人々のみが行うものだとの認識も、同時に強まっていく。このときに強化された観念が、未だにしつこく残留していて、「異性愛者」と「同性愛者」は完全に分離された存在であるという思い込みが、人々――特に“自称異性愛者”の中に根強く存在している。)(前川)

 歴史上、少なくない数の同性愛者たちが、「同性愛者」をアイデンティティとして積極的に引き受けることで、相互の団結を図り、ときに権利主張など社会運動を行ってきた。「同性愛者」という概念が確立した、ということは、「同性愛者である」ということが社会の中での属性として認められるようになったということなのである。すなわち、「ゲイ」という言葉は、基本的には個人が自ら引き受けるアイデンティティである。それを「人格」だと安直にいい切ることはできないが(バトラーの論じたように固定的な「性」(この場合は「人格」)というものは存在せず、そのときそのときの振舞いの連続が、一貫した性と見えるものを作り上げているのである)、社会の中に該当するカテゴリーが存在しているということは、他者からもそうと認められる用意があるということである。「そういう存在」として存在できうるということである。「同性愛者」というラベルについては、性的指向以外の個人に付属する諸々の事柄と同じように、それをもってその人の人格だということは正しいことではないが――その人自身がアイデンティティの一つであると呼べる程度の、社会的な「属性」であるということは確認できる。*6

 

 さて、《1》~《3》の考察から導かれることには、現実社会における「ゲイ」と、腐女子の萌え語りの中に登場する「ホモ」とは別物である。また、腐女子の抱く「ゲイ」像は、一見、強ち現実の「ゲイ」からぶれてはいないようである。「ゲイ」は個人のある程度一貫した「属性」であるから、これを否定するという面から考えても、腐女子の「ホモ」は “一時的な状態”を表したものであるといえる。

 これらのことから、腐女子の萌え語りにおける「ホモ」は、現実社会でのゲイどころか、かつての侮蔑を孕んで名指された「ホモ」という概念とも異なるものを示していると考えるのが妥当であろう。

 また、《2》で触れた「リアルで重々しい」という表現については、《3》を踏まえるとこういうことができる――それは、現実のゲイに対する自身の忌避感を如実に表す意見であると。おそらく、語った本人にそういった自覚はない。だが、フィクションの作中に異性愛を描いたところで、現実の異性愛者に対して失礼だという感覚は恐らく出てこないであろうのに、同性愛を描くときには失礼だと思われる、というのは、明らかに性に対する不均衡な認識が働いた結果生じているずれである。

 このような態度からは、BLは――自分たちの読んだり作ったりする男性どうしの恋愛は、あくまでファンタジーである、ファンタジーだから好きであるというエクスキューズも読み取れる。現実のゲイはあくまでも自分にとって関係のない他者であると、無意識的にしろ距離を置いていることが明らかなのである。現実の「ゲイ」に寧ろ忌避を抱いているといえるこのような意識は、強いていうなら「ゲイフレンドリー」なのではなく「『ホモ』フレンドリー」であるにすぎないものである。

 「ゲイ」のほうが差別的な言葉なのかと思っていた、という素朴なつぶやきを見かけたが、その背景には彼女自身がほかならぬ“「ゲイ」嫌悪”を無意識下に抱いていたからなのではないかとも推察できる。また、《2》での例を再び取り上げれば、「ガチホモ」あるいは「ガチレズ」というスラングは飛び交えど「ガチノンケ」というような語は見られないということ自体も、話者が内面化しているヘテロセクシズムの表出であるといえる。

 総括すると、腐女子は、「そういった人種」ではなく、そういった雰囲気、一時的な関係性にこそ萌えているのだ、という “ニュアンス”を「ホモ」に託して伝えようとしているようである。

 

 

2-4 〈「ホモ」は差別用語なのか?〉

 次に、アンケートへの反応の中で多かったこの疑問について考えていきたい。

 これは、【質問1】でホモが差別用語であることを「知っている」と答えたであろう人と、「知らなかった」と答えたであろう人、両方の立場から提出された問いであった。この中身は、さらにいくつかの問題に分けられる。

《1》「ホモ・セクシュアル」という中立な語の略である「ホモ」は差別用語なのか?

《2》腐女子の使う「ホモ」においては、既に差別的な意味が薄れているのではないか?

《3》話者が差別的な意図で使っているのではないのだから、差別用語とはいえないのではないか?

《4》二次元に対してのみの使用なのだから問題はないのではないか?

 このうち《1》については、既に2-3や1-2で詳しく述べた。「ホモ」は単に「ホモ・セクシュアルの略称」であるのではない。“「変態性欲」の持ち主として蔑視の対象とされた存在”を指す呼称であったわけである。その見方を社会が改めた、という表明としてその語彙を捨て去るのは、政治的に妥当なことであると考えられる。

 それでは、《2》以降の問いについて、2-3と同様に一つずつ解説を加えながら解いていきたい。

 

《2》 これは、わたしたちの使う「ホモ」は萌えの対象を示す言葉であり、ゆえに本来あったという差別的な語義は廃れ、既に好意的な意味に置き換わっているのだ、という主張である。

 腐女子の使う「ホモ」と、現実の「ゲイ」やかつての「ホモ」を含めた「同性愛者」とは、意味が異なるということは、2-3で論じたとおりである。しかしながら、そのことと、「腐女子の使う『ホモ』に差別的な意味が含まれているか否か」ということとは、別の問題である。このことは、異なる二つの観点からそういうことができる。

 

・一つめは、個人レベルでの「意味」を考える観点である。

 2-3で論じたとおり、腐女子の「ホモ」は「ゲイ」への接続を回避するためのエクスキューズだと考えられる。ゲイを自分とはまったくかけ離れた存在、完全に切り離された他者である、と考えるとき、“わたしたち”は「自分が差別する可能性」(好井)をまったく見失っている。そのような状態を「差別的でない」とは、到底いえない筈である。

 ただし、萌え語りの中で敢えて「同性愛者」を指す言葉を使わないのは、「人の性的指向を外部から勝手に決めつける」という行為への忌避(倫理的な配慮)が働いているからである、という可能性も考えられる。そのため、公式で性的指向の明言されていないキャラクターの人格を「そういうカテゴリーに属す人間だ」と断定しない理由を、必ず差別意識に基づくものであるということはできない。しかしながら、そこに配慮しようとして、差別用語を未だに引きずり続けることになっていることの妥当性に関しては、疑念が残る。

 

・二つめの観点は、使用に際して個人が直接には意識していないかもしれない、社会通念としての「意味」を考えるものである。

 こんな意見があった。「差別用語がネタとして繰り返し使用されることで、差別的な意味が薄れていくのはよくあることである」。つまり、「ホモ」もそういう言葉の一つだというのである。差別用語をネタ、要は物笑いの種として繰り返し使用すること自体が差別行為の一つであるが、この人がいっているのは個人の行為ではなく、いわば社会の歴史に関してである。過去に何人もの人間が「差別用語」を「ネタとして」繰り返し使用してきた。それを見た後の世代は、その語が(いわば)“タブーではない”のだと認識する。正確には、“タブーだと認識することがない”。だから当然、その世代がその「差別用語」を自分の口から発するときには、彼らに“タブーを犯している”という意識は存在しえない。――そういう意味である。

 たしかに、これは事実としては間違っていない(差別用語を単に「タブー」と称することは、その語の持つ歴史性そのものを一概に“触れてはならないもの”として隠蔽するような態度である、ということは否めないが、ここでは単に「倫理的・道徳的・社会的に悪いという感覚」を漠然と指してそういう表現を採った)。しかしながら、ここでいうところの“後の世代”の人間には、明らかに“歴史に対する無知”がある。無知は罪である、と短絡的にいいたいのではない。そうではなく、一見、きわめて個人的な振る舞いであるように見える日常の発言は、その実常に既に内面化された社会通念の表出であるのだということを指摘したいのである。

 

 また、同じ人からこのような指摘もあった――「周囲の言語の使用法を見て、自分でそれを習得していくことは普通のことである」。わたしたちは周囲の腐女子が“萌えのニュアンスのパッケージ”として使っている状況から、「ホモ」という語句を肯定的な意味のものとして習得したのだ、それは他のあらゆる言語の習得と同じやり方である、というのである。これもまた、もっともなことである。しかしながらそれは、「ホモ」という言葉の背負う歴史性や社会性そのものから、その語の具体的な使用者としての個人が解き放たれたことをは意味しない。

 その言葉が歴史性や社会性を帯びたものであるという、未だわたしが発見していない可能性――ここでは「ホモ」が「差別用語である」という可能性――を目の前にしてなお、それを取るに足らないものとして自らの視界や思考から排除しようとすることは、他ならぬわたし自身の「差別する可能性」に自ら目を瞑っていることと同義である。わたしたちは多分に差別的である社会通念を知らず知らずのうちに内面化させられ、その通念の産物である言葉を無自覚に用い、その言葉の歴史的な含みを知らないままに、自らの消費の快楽のために“いかにも好意的らしい”意味を付与していると自分でも思い込んで、その実消費対象を自分とは完全に別世界の他者であると隔絶するためのスティグマを彼らに対して押し付け続けるのか。「差別する可能性」から目を背け続けるというのは、そういうことである。「言語習得において普通のことだ」という表現には、“(それが普通なのだから)間違っているわけがない”“(社会の仕組みが全体としてそうなっているのだから)自分が責められる謂われはない”というような含みが感じられる。それは溝口氏の言葉を借りれば、「『社会通念に支配されてしまう責任能力のない私たち』というモデルにおさまろうとする」ことにほかならない。それは、わたしの主体性を自ら手放すことである。内面化された差別的な意識に無批判に追従している限り、そのような個人が、差別的な歴史性を帯びた言葉の意味を主体的に肯定的に組み替えることは論理的に不可能である。

 ある言葉の意味を意識的に組み替えて使用するということは、実際、それ自体としてはありえないことではない。「クィア」という言葉がある。これは元々性的マイノリティに対する強烈な侮蔑の語であった。その意味を逆手に取り、その言葉そのものを社会通念へ痛烈に斬り込む手段としたのが「クィア・スタディーズ」である。敢えて学問の名に冠することによって、歴史を踏まえた上での意味の転覆を図られたのが、今の「クィア」という言葉なのである。

 では、腐女子の使う「ホモ」も、それと同じようにできるのであろうか。可能性がなくはないが、それは極めて難しいように思われる。なぜなら、腐女子は本論冒頭で述べたように、その殆どが異性愛女性だからである。そもそもクィア」にしても「ゲイ」にしても、当事者が明確な意図を持って自ら使い始めた言葉である。いくら腐女子が、観賞対象として「他者」と割り切っている相手について一方的に名指すための名称の意味を組み替えたところで、そこには根本的に「自分と相手を隔絶する」という「差別」的な前提が取り除かれることなく根差すことになるのである。

 

《3》 この問いは、「差別用語」を差別用語と知りながら使用することの裏に差別意識がないとは果たしていえるのか、という単純な疑問を湧き上がらせる。ともあれ、これにも《2》で考察したことでおおよそ答えることができる。すなわち、「社会通念を内面化していること」「それを焼き増しすることに加担していること」に無自覚・無批判であるがゆえに、「そのような意図はない」といい切れてしまうのだといえる。

 さらに、別の理由として、「想像力」を十分に働かせることができていないから、ということが考えられる。もし、自分に馴染み深い言葉の使用を留保することを、その言葉の歴史性を顧みることなしに「言葉狩り」だと捉えることができてしまうのであれば、それは、現実的なレベルでその語が「わたしの声の届く範囲に生きている人を傷付けるかもしれない言葉」であるということに、想像を巡らすことができていないからではないか。

 わたしたちは、得てして、「差別」を何か大きなものだと想像しがちである。つまり、“日常でわたしが差別する”という図を頭の中に思い描きづらいのである。

 「差別用語だろうとなんだろうと、語感がいいので『ホモ』を使いたい」「LGBTの人が嫌がるならやめた方がいいのだろうか(だが、今更この言い回しを腐女子コミュニティから消し去ることは不可能に近いだろう)」という、類似の意見がかなり多く見られたつぶやきは、明らかに、「自分の言葉で傷付くかもしれない」人を「他者」として自分の世界にはいないものと了解する思考の表出である。そのような考えでいるとき、わたしたちは、前川直哉氏の言葉を借りれば、自分たちと「他者」との間に「ガラス板」を張っている状態にあるといえる。広い世界の遥か向こうまで自分と同じ価値観が続いていると思っているマジョリティは、マイノリティとの間に張られた壁の存在に気付くことはないのである。(前川p.171-172)

 さらに違ういい方をすれば、彼女らは、「差別をしていた時代には、そして無論その現場には、わたしは/わたしたちは“いなかった”」と思っているのではないかと考えられる。「いない」でなく「いなかった」であり、なぜならそれは実際、彼女たちの語りから差別はもう終わったものだというふうな意識が見て取れるからである。やはり「差別」をわたしの日常にあるものだとは意識していないのである。

 また、「(腐女子の「ホモ」という言葉は)今更なくならない」「言葉を変えることは今更できない」という意見が散見されたことは、社会の仕組みに加担しながらも、自分の主体的な働きではないとしてその行為の責任を退けようとする“わたし”が、少なくないことを示している。これらの発言からは、彼女らが「差別」を自分から切り離しているだけではなく、「言葉」というものについても、自分とは別のところ――おそらく「社会なる絶対的で支配的なもの」――に属するものとして位置付けているのだ、ということが分かる。これは、「言葉」の支配者である“社会なるもの”は絶対的で非常に強力であるから、脆弱な自分はそれを吟味も批判もすることなく借り受けるしかないのだ、と宣言していることに等しい。そのような、主体性を積極的に放棄した個人が、その身に負った社会的な歴史性のために差別用語であるような言葉を、“差別を意図しないという意図”をもって使うことは当然できないであろう。

 

《4》 これは【質問3】の二つめの選択肢と重なる問いである。つまり、「ファンタジーやフィクションに対する発言なのだから、現実の差別問題とは関係がないのではないか」というものである。「リアルでは当然いわない」「二次元に対してしかいわない」という意見が非常に多く見られた。【質問2】に関しての「自分の中に『やめたほうがいい』と思う部分と『二次元に対してのみの使用なら大丈夫』と思う部分とがあるので、『分からない』を選択した」という反応も同様のものである。

 これは、「現実の人間に対しては使うべきでないが、二次元に対していうのであれば許される」という考えである(ただし、どの程度許されるか、今後一切許されるのか、機会があればやめていくのがよいのか、といったディテールに関しては、主張する人により違いが見られた)。

 そして、その理由として主張されていたのは、「二次元と現実とは分けて考えるべきである」という考えであった。しかしこれは単純に誤った主張である。なぜならば、「ホモ」という語をもって名指される男性キャラクターは二次元の存在であるが、名指すわたしたちの方は当然、三次元つまり現実の存在だからである。

 「現実とフィクションとは分けて考えるべきだ」という主張それ自体は、場合によっては非常に正しいものである。それはたとえば、漫画やアニメ、小説などの、現実に被害者のいないポルノグラフィに対して、非実在青少年の権利を擁護すべきといって規制を迫るような政策を相手取った際に、反論として使われる場合などにおいて、正しいのである。あるいは、暴力的ないし性的な表現物に対して、さもフィクションが必ず現実世界のアクションを誘発するかのような、誤った批判がなされている場合において、それを批判し返すために使われるときに、ある程度の正しさを持ちうる主張なのである。

 これらの例に対して、《4》の問題に付する形で腐女子が「二次元と現実は分けて考えるべきだ」という場合、この主張は、あたかもフィクションと現実との間にはまったく何の関係性もないかのように語るものに陥ってしまっている。この場面でこの表現を用いることによって、腐女子は「わたしは二次元に対して発言を行っているのであり、それは現実とはまったく切り離された行為である」と主張していることになる。しかし、これは明らかな誤りである。なぜなら、二次元をそう名指すわたしたちの言動の中には、常に多かれ少なかれ、個人的な感覚としての、あるいは社会的な文脈としての、「現実」の一端が発現しているからである。

 このようにいうとあるいは、先に出した表現規制の例と矛盾しているかのように見えるかもしれないが、そうではない。ここで指摘したいのは、「二次元のキャラクターに対して配慮せよ」といったことではないからである。彼女らの使う、「二次元と現実は違う」という表面的なレトリックの裏に隠されようとしているのは、「表象を受け取るわたしたちはリアルの存在である」というごく単純な事実である。

 二次元の表象について語るわたしたち自身は、まさに“現実に”身体を持った存在であること。表象から何かを読み取り、またそれについて語るとき、その仕方には必ず、わたしが内面化した社会規範やわたしの個人的な感情や体験の蓄積などとしての「現実」が、影響を及ぼしているということ。《4》の問いに関して腐女子が「二次元と現実は違う」と主張することは、これら二つの意味で誤りであるといえるのである。

 

 

2-5 〈萌えの対象に腐女子自身を投影しているがゆえの蔑称であろうか?〉

 これは、2-1で立てていた仮説(3)「自虐の捻じれた表出」に通じる問いである。

 1-2で触れたように、「腐女子」という呼称は、元々それ自体が侮蔑・自嘲のニュアンスにより構成されている。腐女子は、一般にアングラ的なオタク文化の中においても、さらに日陰の・隠れるべき存在だという認識を、他者からも自分たち自身からも持たれているのである。

 その感覚はどこから生じたものであるのか。それは一言でいえば、「自分の性愛の対象ではない人間どうしの性交を観賞する異常性」に対する嫌悪や忌避感である。たとえば、かつて「やおい論争」の発端となった佐藤雅樹氏のエッセイ文、「ヤオイなんて死んでしまえばいい」(溝口p.101-105〉にそのことは端的に著されている。このエッセイの主旨自体は、まさに“腐女子がゲイを自分勝手に消費している”ことへの糾弾であるが、「女なのに男性どうしの性交を見て喜ぶ異常性」についても冒頭で言及されている。佐藤氏のいうように、腐女子の萌えの対象は基本的に、「ヤリたい対象としての男、ではない」(溝口p.102)。つまり、直接には自分の性愛の対象ではない男性どうしを、セックスさせたり恋愛させたりして喜んでいること、それを異常であると蔑む感覚が、「腐女子」を「日陰者」「はぐれ者」という存在に追いやっているのである。そしてその「異常性」への意識は、腐女子自身も多くの場合持っているものである。それは、元は他称であった「腐女子」を自ら自称として受け入れていることにも、また、たとえば自身のBL的な萌え語りを「腐ったつぶやき」と表現するような、普段の何気ない言動にも表れている。

 もう一つ、女性がエロに言及することそのものへのタブー意識も、「日陰者」としての意識の形成に影響したと考えられる。もっとも、最近では、その風潮は順調に廃れてきたようにも見える。特にSNSの場ではその縛りは緩くなってきていると感じるが、やはり、腐女子仲間どうしで集まっている場だからこそ、その中においてのみ思う様奔放になれる、という面があることも否めない。そのことは、「はぐれ者」であることによってのみ欲望を表現することができるのだ、といい換えられる。*7

 以上は、腐女子が「隠れるべきもの」であると見做されるに至る、感覚的な面での理由である。次には、より“客観的”な理由について考えたい。というのも、腐女子が“身を隠す”――「一般向け」ファンアートと“棲み分ける”――ことには、一定の、社会的な合理性があると一方では認められるのである。それはどのような点においてであるのか。

 一つには、作品や萌え語りの中の性表現の度合いが高い場合には、単純に18禁としてカテゴライズされるからという理由が挙げられる。ファンアートの製作や観賞に参与すること自体には当然年齢制限はないので、作品や話題を発信する側が、未成年のファンの目に触れないよう意識的に配慮する必要がある。

 そして、それ以外の場合――レイティングの高くない恋愛表現の場合であっても、棲み分けが必要だと判断される理由は、すなわち「キャラクターの性的指向や恋愛の相手を勝手に妄想して(決めつけて)いるから」に他ならない。

 しかし一方で、同様にキャラクターの恋愛を原作にない形で妄想した男女カップリングは、しばしば一般向けと棲み分けることなく発信されている。これは明らかに、性別に関する不均衡な認識の表れである。それは、「“異性愛”は(異性愛であるがゆえに)『一般』に向けてオープンにしていてもさほど問題ではないが、“同性愛”は(同性愛であるがゆえに)問題である」という認識である。牧村朝子氏は、このような事象について、「相手も物思う人間だから」こそ、彼らについて妄想するときは本人の目に触れないよう配慮が必要なのであるが、「その自主規制プレッシャーが実在の男性同性愛者まで隠すべきもの扱いしていないか?」と指摘する(牧村p.10-11)。氏の指摘は「ナマモノBL(=実在の人物を取り扱うBLジャンル。たとえば、実際には恋愛関係にない男性芸能人どうしの恋愛や性愛を描く)」についてのものであるが、二次元のキャラクターに対して同じように、愛を持ってそのような配慮をすることも、特に糾弾されるべきようなことではないだろう。

 さらに別の観点からも考えるならば、恋愛や性愛はそもそも、「同性愛者」という名称を当事者が進んで引き受けたように、当人のアイデンティティにかかわるセンシティブな事柄であるので、他のifものやパラレルものと同等の次元で棲み分け区分の線を引いておくことは、公平さと合理性を備えたものだといえる。“純粋に原作を語る”場と、ifやパラレル妄想の場とを棲み分けることには。原作を知らない他ジャンルのオタクからの誤解を避けたり、単純に好き嫌いの分かれるif設定を巡ってファンどうしがお互いに不快な思いをなるべくしないよう予防したりできるという利点があるのである。棲み分けはそういう意味で、ほどよく意識されるならば非常に有益なものである。逆にいえば、そういう意味においてのみ、棲み分けや「隠れる」ことがなされるべきなのである。「同性愛だから」「同性愛表現が苦手な人が多いから」隠すべきであるという理由付けは、明らかに政治的な公正性を欠いている。そして、そのような理由の許で、隠れることを「マナー」として適用してしまうコミュニティにおいては、現実に尊重されるべき存在であり且つ現実にある属性を持った存在である他者が、わたしたちの世界には存在しないものとして完全に排除されている。

 「同性愛表現は同性愛であるがゆえにこそ隠されるべきだ」という感覚は、しばしば多くの人の内において、「同性愛表現」を「(異性間における)凌辱やレイプ表現」と無意識に並列させている。これは、アンケートに関して一人の腐女子とDMでやりとりした際に遭遇した実例である。彼女がメールにしたためた考察の中では、「いわゆるプラトニックな同性愛表現」と「異性に対する凌辱・レイプ表現」とが同列に扱われているように見えた。そのことを指摘すると、彼女は「初めて気が付いた」と驚いた様子であった。これはおそらく、彼女だけが特別な思考の持ち主だったのではない。そういった感覚は、少なくない腐女子、あるいは、腐女子ひいてはBLを「はぐれ者」と指す一般のオタクの中に、広く根付いていると考えられる。男女のカップリングを「NL」=「ノーマル・ラブ」と表記する慣習(つまり「BL」や「GL」は“アブノーマル”であり異常なのである)、「一般向け」との棲み分けを喚起するときに用いられる「同性愛表現は苦手な人が多いから」という理由付け、動画やイラストや小説などの二次創作作品のキャプションに未だに掲げられる「同性愛表現が苦手な人は注意」「BL注意」の注意文などを見れば、そのことは容易に推察される。

 

 以上のことから、腐女子には“二重の”タブー意識があるといえる。

・直接には自身の性愛の対象として見做すことなく、男性キャラクターどうしを性的に絡ませて、それを観賞する「異常性」

・ “「同性愛」などというアブノーマルで隠されるべき性愛のあり方”を愛好する「異常性」

 この二つを負っているという意識、それが「腐女子」という蔑称を、他称としても自称としても定着させた所以であるといえる。

 ともあれ、2000年代後半ほどまでは、「やおい」という、今の「BL」を指す名称がそれと並列して使われていたように記憶している。「やおい」とは、直接には「やまなし・おちなし・いみなし」の略であり、作者自身の欲望のみを反映させた代物だ、という自嘲をユーモラスにあっけらかんと示した名称である。「やおい」は同時に、「女性向けの男性同性愛作品」であることを端的に示す、つまり差別的なニュアンスを含まない言葉で“あった”。――というのも、この「やおい」という言葉は今、少なくとも本論で取り上げている層のBL愛好者の間では、殆ど使われていないのである。

 かつて、『腐女子彼女。(ぺんたぶ、エンターブレイン、2006)や『となりの801ちゃん小島アジコ宙出版、2006)が話題になったことで、「腐女子」「やおい」という名称はオタク以外の一般にも広く認知されることとなった。ある腐女子に聞いたところによれば、当時、知名度の上がってしまった――つまり自分たちの存在を明るみに出してしまった、従来の呼称に代えて、BLやBL愛好家を名指す新しい隠語を考えようという動きが、腐女子コミュニティの中で起こっていたようである。しかしその結果、なぜか差別的含みを持たない「やおい」は淘汰され、本来蔑称である「腐女子」はそのまま残された。(また、広義にBLを指していた「JUNE」の語も、現在では全くといっていいほど見かけない言葉になっている。)のみならず、それまでは目立たなかった「ホモ」という語が、腐女子の萌えの対象を指すものとして急速に台頭し広まったのである。

 たしかに、「やおい」がポピュラーないい回しだった頃には、「ホモ」という言葉をこれほど頻繁に聞くことは実際なかった。「ホモ」が2016年現在に至るまでこれほど広く腐女子に支持されている背景には、2012年に「ホモォ」というアスキーアート(「┌(┌^o^)┐ホモォ…」)がツイッター上で爆発的に流行したことも関係していると思われる。「ねとらぼ」や「togetter」のまとめによれば、この「ホモォ」は、2012年4月に突如、一部の腐女子たちの間で流行した。おそらくこのAAや、AAを基にしたgifアニメの誕生によって、より広範囲にこのブームが普及したものと考えられる。

 では、なぜ、一見徐々にセクシュアルマイノリティにサポーティヴな方向へ向かっているように見える時流に、逆行するようにして、それも同性愛表現を愛好するコミュニティの中において、差別的なニュアンスのみが強化され、あまつさえ差別用語復権して使用されるという事態になったのであろうか。

 アンケートに関して、「腐女子は元来、アブノーマルな存在として非常に身を隠したがっている」「腐女子の最も根底の部分には、原作を読み替えていることに対する罪悪感が常にある」という感覚を滔々と綴ったDMが寄せられた。これは先に述べたような、腐女子に関する一般的な認識と齟齬があるものではない。だが、メールの文中で過剰なまでに繰り返し語られる「罪悪感」という言葉は、却って、一般論としての「腐女子ははぐれ者」という言がその内に孕んでいる、腐女子自身の倒錯した自意識、そしてその根強さを、まざまざと浮き上がらせているように見えた。

 つまり、この「罪悪感」はその実、「背徳感という“快感”」と表裏一体であるのではないか。あるいは、腐女子においては既に、両者が殆ど転倒しているのではないかと思われるのである。

 近年、日本では、同性パートナーシップ条例の施行や同性カップルの結婚式の挙式など、一見、社会が随分とセクシュアルマイノリティにサポーティヴになってきたような状況が見受けられる。おそらく、“アングラ”で“アブノーマル”な存在であるとのアイデンティティを持つ「腐女子」は、そのような社会状況に焦燥感を抱いている部分があるのである。「世間は着実にセクシュアルマイノリティを受け容れつつある」ことを感じ取りながらも、「しかしそれでもまだ同性愛は禁忌(タブー)だといえるのだ。それゆえに美しいし究極の愛を描けるのだ」と、同性愛の“タブー性”を奮い立たせ、必死にそこにしがみつこうとしているのではないだろうか。だからこそ、敢えて「やおい」や「JUNE」などの候補を棄てて、「腐女子」や「ホモ」といった侮蔑的な意味をより濃厚に孕む言葉を選び取り、ホモフォビックな社会に回帰しようとしているのではないか。

 それは腐女子が「腐女子」としてのアイデンティティを守ろうとする動きにも見えるが、考えられるもう一つの動機も、かなり強力なものとして働いているであろう。それは、「自分たちのいる場所をタブーの領域に置いておきたい」という欲求である。腐女子の得る快楽には、BLそのものから得る快楽の他にも、いくつかの種類があるといわれる。その中に、背徳感からくる快楽というものが存在しているのではないか。それは、ネットスラングとして定着している「中二病」の典型として広く認知されている、エロ・グロといった表象や反社会的な行動などに憧れを抱く感覚と、同様のものであると考えられる。「ピクシブ百科事典」には「中二病」の別名として「他人とは違う俺カッコイイ病」との説明がなされているが、これは非常に的を射た表現なのである。

 さらに、こういったいわばアウトロー的な感覚を共有することは、当人たちの間にしばしば強い連帯感を生み出す。オタク文化そのものが、メインカルチャーから外れた場所で、「一般人」とは違う自分たちの文化やそれに基づくアイデンティティを、誇り高いものとして獲得しようとしてきた歴史を持つものである。オタク文化の一部である腐女子の文化も、その意識の根底にオタク全体の文脈を色濃く受け継いでいる。溝口氏は、腐女子的な快楽には、BLそのものを味わうことにより得られるものは勿論あるが、もう一つ、ことによっては最も大きい快楽ともいいうるものとして、“腐女子どうしの交流”による快楽を挙げている。氏は、この快楽のありようを指して「ヴァーチャル・レズビアン」と呼ぶ。実際に腐女子どうしで語り合うことは勿論のこと、BL作品を読み、その向こう側に作者の性癖や生き方を見ることによっても、腐女子はヴァーチャル・レズビアン的な快楽を得ると分析されている。このように、腐女子が他者との交流やそれを保証するコミュニティ、その存続を支える仲間内の連帯感にこだわることを、腐女子が“背徳的な文化”に拘泥する理由として指摘することは、けして飛躍した主張ではない。

 溝口氏は、同性愛者を始めとするより多くの人々にとってよりよい社会を作っていく上での手本となるような、現実を牽引しうるようなBL作品を、「進化形BL」と呼ぶ。「ホモ」を日常的に無批判に使う腐女子の態度は、「進化形」の姿勢であるとはいいがたい。ならば、その多くが「タブーとしてのBL(同性愛)」に未だに耽溺していたとしても矛盾した話ではない。実際、二次創作作品の中には、進化形BLが乗り越えてきた「俺はホモなんかじゃない(お前だから好きなんだ)」という表現を、今も非常に多く見ることができる。二次創作界隈においては、作り手と受け手との距離が商業の場合よりもさらに近く、また両者の境界線も限りなく曖昧であって、線引き自体が無効であるとすらいえる。かなり多くの人々が、何かしらの創作を自分で行いながら、同時に他者の作品をも楽しんでいる。そのような環境であるから、たとえば、pixivで読んだ「俺はホモじゃない」系のBLイメージに感化された人が、そのまま自分でもそのイメージを取り込んだ作品を製作し、pixivに投稿するということが容易にできる。SNSの発達した今の二次創作界は、かつてに比べてより手軽にイメージが再生産されやすい環境であるといえる。

 腐女子たちは、そのような環境の中で、「ホモ」という語を繰り返し摂取しては生み出し続けている。そして、その過程で語義が漂白されたとはけしていえない侮蔑語の裏に、背徳感という快楽、それによる仲間との連帯という快楽を、隠し守ろうとしているのではないかと考えられる。

 

 

3 快楽・欲望と配慮との両立

 2-1~2-5を踏まえると、腐女子が「ホモ」を使用すること、またそれを容認することは、「差別用語だと知りながらも、ニュアンスを仲間に伝えたいから使用をやめない」という思惑に支えられたものであるといえる。つまり、“未だ発見されていない他者”としての現実のゲイ男性に対する配慮よりも、腐女子コミュニティ内での“スムーズ”な交流を優先しているのである。アンケートによれば、表面的には、同性愛を自覚的に嫌悪している人はごく少数である。実際、つぶやきを見ると、「ホモ」に代わって萌えの“ニュアンス”を表しうる言葉が編み出され、広く浸透しさえすれば、その言葉に乗り換えることはやぶさかではないというスタンスを見せる人が大半であった。

 「ゲイ」では“ニュアンス”が違うという話は2-3で考察したとおりであるし、そもそもその“ニュアンス”自体に内面化されたホモフォビアが表出している可能性があるということも論じたとおりであるが、差し当たっての問題への向き合い方として、「ホモ」の代替語を検討するという具体的な実践はある程度有効であると思われる。ただ、ここではその例を提案することはしない。寧ろ大切なのは、具体的な代替語を作るのか作らないのかということよりも、「主体性を失ったままに古い言葉を使い続ける以外の道もありうるのだ」ということを、わたしたち一人一人が認識できるようになることだと考えるからである。

 強いていっておきたいのは、腐女子間のスムーズな交流と、「ホモ」の歴史性や社会性に自覚的になることとは、けして排斥し合うものではないということである。それらは必ず両立しうる。

 実際、「ホモ」という単語は使わずに、しかし頻繁に饒舌にSNS上にて萌え語りをし続けている腐女子はいる。そのような人も、「腐女子」だと自ら名乗ることができているし、それを周囲の他の「腐女子」にも認められている。「ホモ」を使わなくても、今の腐女子コミュニティに参加することは可能なのである。アンケートを見ても、差別用語だと「知っている」ので「使わない」という腐女子当事者は少なくはない。他の言葉で代替することが“ぜったいに不可能だ”というわけではない、ということがこの事実に明示されている。

 「ホモ」という語を現在進行形で使用している人においては、“わたしは自分で選んでその言葉を使用しているのだ”ということを自覚することが、自身の主体性を取り戻すことに繋がるであろう。惰性ではなく、社会に押し付けられているのだから仕方がない、自分だけが責められたくない、という責任逃れでもなく、自分自身で選び取ったのだという意識の許に言葉を使うとき、「差別する可能性」と向き合える主体が、まさに息をし始めると考える。それは、「他者への想像力」を膨らませることである。その想像力は、現実社会で自分の言葉を聞くであろう“自分と同じ世界に生きている他者”、そして、わたしの愛してやまない二次元に生き生きと息衝いているキャラクターたち、そのどちらに向かっても伸ばしてゆくことのできる想像力である。

 2-5の終わりで、二次創作は、商業よりも手軽にイメージを再生産させてしまうと指摘した。しかし、それは逆手に取ることが十分に可能な状況である。SNSを使った二次創作がイメージを生産・流布しやすいシステムなのであれば、それによって発信できるものは、マイナスイメージだけではない筈である。凝り固まった社会通念の再生産を容易にするツールは、しかしそのツール自体は限りなく制限が少なくニュートラルなものであるので、新しいプラスの創造を広めることをも、また容易にするものである。そして、これはなにも革新的で実践的な作品のみを、意識して製作し、また話題にすべきだなどといっているのは断じてない。配慮と、面白い文化を創造することとは、矛盾しないし、両者は排斥し合うものではけしてない。溝口氏は、「進化形BL」に多大な価値を認めつつ、しかしそれを生み出すためにも、他ならぬ腐女子自身の快楽を追求することを最も大切なことだとして推奨している。氏は、商業BLが「進化」した理由について、“自分の生み出したキャラクターへの愛、自分の作品を愛してくれる人たちへの愛”から生まれてきた、「誠実な想像力」の翼を、ただ一心に羽ばたかせたからに他ならないと結論付けている。これは、好井裕明氏が日常の差別に関して論じたことと通じている。好井氏は、わたし自身の「差別する可能性」を見詰めることで、「奥深い他者性」への想像力を得ることができるという。それは、得ることによって自分が加害者になる可能性に委縮したり、配慮を迫られることに息を詰まらせたりせざるをえないようなものではなく、他ならぬ「わたし」が、常に他者とともにあるこの世界で営まれる自分自身の日常を、他者とともにより豊かに生きてゆけるための、重要な手掛かりとなるものなのである。

 二次元の快楽と三次元への配慮とは両立しうるし、三次元への配慮は三次元での豊かな生活と両立する。寧ろそれらは、お互いに刺激し合い高め合っていけるようなものなのである。わたしが自らの「差別する可能性」に気付き、それを見詰めることは、わたしの自由を狭めるものではない。その気付きは寧ろ、わたしが他者とともにより豊かな「自由」を追求していけるような道への第一歩となるのである。

 

 

4 参考文献

溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』太田出版、2015

BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす

BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす

 

 

前川直哉『男の絆――明治の学生からボーイズ・ラブまで』筑摩書房、2011

男の絆 明治の学生からボーイズ・ラブまで (双書Zero)

男の絆 明治の学生からボーイズ・ラブまで (双書Zero)

 

 

好井裕明『差別の現在 ヘイトスピーチのある日常から考える』平凡社新書、2015

 

牧村朝子『ゲイカップルに萌えたら迷惑ですか? 聞きたい! けど聞けない! LGBTsのこと』イースト・プレス、2016

 

加藤秀一石田仁/海老原暁子『ジェンダー』ナツメ社、第14刷2014(初版2005)

ジェンダー (図解雑学)

ジェンダー (図解雑学)

 

 

ジュディス・バトラー/訳・竹村和子ジェンダー・トラブル フェミニズムアイデンティティの攪乱』青土社、第11刷2011(初版1999)

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

 

永山薫『増補 エロマンガ・スタディーズ 「快楽装置」としての漫画入門』ちくま文庫、2014

増補 エロマンガ・スタディーズ: 「快楽装置」としての漫画入門 (ちくま文庫)

 

ピクシブ百科事典「中二病(ちゅうにびょう)とは」http://dic.pixiv.net/a/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85(2016.12.5)

ニコニコ大百科中二病とは(チュウニビョウとは)」[単語記事]」http://dic.nicovideo.jp/a/%e4%b8%ad%e4%ba%8c%e7%97%85(2016.12.5)

ねとらぼ「【ホモォ…】Twitterで謎の生き物が大量繁殖中【ホモォ…】」http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1204/17/news128.html(2016.12.5)

togetter「ホモォ ┌(┌ ^o^)┐ まとめ」

http://togetter.com/li/288983(2016.12.5)

*1:「圧倒的に多い」とは、筆者の主観的な認識である。自分の属するコミュニティ及びその近隣の話を見聞きして得た、筆者の実感である。

*2:他者を観賞するまなざしは、被鑑賞者を支配する権力を常に内包している。まなざしの権力についてはしばしば、フーコーに倣いパノプティコンの例を用いて説明される。

 身近なところでいえば、次のような例を挙げることができる。あなたは、「男性はファッションに疎くても問題はないが、女性が衣装や化粧に気を遣わなければ『女を捨てている』と非難される」という、不均衡な社会通念の存在を感じることはないだろうか。“男性にはまなざしが向くことはないので”彼らは身形に気を遣う必要はないが、女性は“当然一方的にまなざしを受けるべき存在なので”外見を美しくする必要があるのである。この場合、鑑賞者の立場にあるのは男性で、被鑑賞者の立場にいるのは女性である。男性はまなざしによって女性を支配しているといえる。また、男性中心のこのような通念を、女性自らが内面化してしまい、同じ女性や自分自身を自らのまなざしによって縛ってしまうということもある。

*3:言葉を行為進行的(パフォーマティヴ)なものと捉える考え方。

*4:言葉を事実確認的(コンスタティヴ)なものと捉える考え方。

*5:“政治的妥当性”を採る立場、すなわち「ポリティカル・コレクトネス」の考え方。ここでいう“政治”は政策や行政といったものではなく、わたしたちが社会の中に“他者とともに”生きているという状況から生まれる、もっと素朴なもののことである。他者とともに生活するにあたって必要となってくる、もろもろの配慮や決めごとなどのことである。

*6:バトラーや、彼女の思想から大きな影響を受けているクィア・スタディーズは、アイデンティティを固定したものとして捉えることを問題視している。

*7:腐女子」が「異常」視される理由として、もう一つ別の理由も考えられる。それは、「女は男に奉仕するものなのに、腐女子は性行為に加わらず、あまつさえ男を“見て(=まなざしによって支配して)”いる」という、男性目線(もしくはそのような価値観を内面化してしまった女性の目線)での「異常」性が嫌悪されたから――というものである。

 ジェンダーセクシュアリティの問題は、常に分かちがたい。フェミニズムレズビアン・ゲイスタディーズとが、ヘテロノーマティビテイ(異性愛男性中心主義)を同一の敵と見て手を取り合ったように、両者は寧ろ受ける差別の根本を同じくしている。